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ELPHONY
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"「標識(ひょうしき)」は、大事な情報をひと目で伝えたり、案内するための目印やサインです。駅、電車、デパート、レストラン、空港、道路--みなさんのまわりにはどんな標識がありますか。 たとえばあなたが外国に行き、空港に降り立ちます。その国の言葉が分からなくても、どこにトイレや電話があるのか、案内用に設置された標識の絵記号で、すぐに分かるでしょう。この絵記号を「ピクトグラム」と呼びます。文字の案内よりもすばやく理解できるので、安全で快適な生活のコミュニケーション道具として世界中で使われています。 標識には、施設や公共の場で使う「一般案内用図記号(いっぱんあんないようずきごう)」、歩行者や運転手のための「道路標識(どうろひょうしき)」などがあります。ピクトグラムは、「トイレ」の表示に男女の絵、「階段」は上り下りする人など、具体的にイメージできるよう記号になっています。 標識の記号化は何万年も前の石器時代からあり、狩りの対象となる動物や人間を図や絵にして洞窟に刻み、情報を伝えていました。"
gogo
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"勉強しろ!! 勉強しろよ!! 勉強して!! 勉強してよ!! 勉強しなさい!! 勉強してください!"
_deleted_
633 Characters / 3 Recordings / 1 Comments
"初めまして、こんにちは、 僕はDavid(デイビッド)と言います。2年ほど前から独学で日本語を勉強していますが、これからは日本語を専攻するので、確実に日本語の授業をとることになります。それ以外にも、東アジアの歴史や言語学に関する授業などをとりたいと思っています。暇なときは日本語の勉強と言えるか分かりませんが、日本語の本を読んだり、日本のドラマ、映画、音楽なども楽しんで鑑賞しています。いつか中国語、広東語、韓国語も勉強したいと思っています。だけど、僕は日本語を流暢に話せるようになる自信がありません。(今は話す力が殆どないですからね。)今は大学 4年生で、卒業にはあと2年かかると思います。(実は1年前この大学に転校して単位がリセットされてしまいました。専攻を変えたために、新しい専攻分野で学位取得に必要な単位の数が変わってしまいました。)外国語を勉強するのが一番好きです。そして一番大切なことは友達と話すことです。まあ、残念ながらまだ日本語が上手く話せませんし、それに足りないところがいっぱいありますから、よろしくお願いします!日記を読んでくれる人や、僕と話してくれる人に深く感謝しています。英語の勉強をしているみなさん、質問があれば、どうぞいつでも聞いてください。お役に立てれば嬉しいですからね。それに新しい友達ができたら超嬉しいんですよ!よろしくお願いします! もっと話したいなら、Skypeに追加して、Twitterでもフォローしてください。(/・ω・)/"
Peter
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"こんいちは。 さようなら。 ください。 どうぞ。 ありがとう。 どういたしまして。 はい。 いいえ。 すみません。 ごめんなさい。 わかりません。 ちょっと待ってください。 ..."
per_iocum
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"石川啄木の本名は石川一で、1886年に岩手県で生まれました。小学校時代には神童と呼ばれました。神童というのは、才知の極めてすぐれている子供という意味です。 旧制中学(つまり、今で言う高校)で 金(きん)田(だ)一(いち)京(きょう)助(すけ)と知り合って『明星』を愛読し、特に与謝野晶子(よさしゃのあきここ)の「みだれ髪」が好きでした。 そういうわけで、文学に対する関心が高まる一方で次第に学業を怠るようになっていきました。 1902年には中学を自主退学し、文士文学者として身を立てるために東京に行きました。けれども、出版社への就職がうまくいかないで、結核の発病もあって、ほとんどすぐ帰郷に帰りました。翌年に『明星』の 創始者・与謝野鉄幹(よさのてっかん)が心からあつく歓(かん)迎(げい)してくれました。そして石川は「啄木」の号を与えてもらって詩作や評論を活発に行いました。 1905年には第一の詩集の『あこがれ』を出版して天才詩人として賞賛されました。 文学者としての名声は上がる一方で生活は苦しくなって、1906年に小学校の代用教員として働き始めました。翌年には北海道へひっこして様々な職を転々としながら家族の生活を何とか支えていました。 文学を諦めきれない啄木は1908年に小説家として再び東京に出ました。けれども、小説家としての才能は認められなくて、朝日新聞の校正係として就職し、しばらくしてから朝日歌壇の選者になりました。 この年に北海道に残してきた家族を東京へ呼び戻しましたが、妻と姑の仲が悪化し、妻が実家へ帰るなどのトラブルも多かったです。 1910年には第一の短歌集『一握の砂』を出版し、口語的な三行書きや鮮やかな表現技法から啄木は生活派詩人として知られるようになりました。 1912年、肺結核によってたった26歳の石川は死亡(しぼう)しました。 ..."
per_iocum
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"石川啄木の本名は石川一で、1886年に岩手県で生まれました。小学校時代には神童と呼ばれました。神童というのは、才知の極めてすぐれている子供という意味です。 旧制中学(つまり、今で言う高校)で 金(きん)田(だ)一(いち)京(きょう)助(すけ)と知り合って『明星』を愛読し、特に与謝野晶子(よさしゃのあきここ)の「みだれ髪」が好きでした。 そういうわけで、文学に対する関心が高まる一方で次第に学業を怠るようになっていきました。"
per_iocum
214 Characters / 3 Recordings / 2 Comments
"1902年には中学を自主退学し、文士文学者として身を立てるために東京に行きました。けれども、出版社への就職がうまくいかないで、結核の発病もあって、ほとんどすぐ帰郷に帰りました。翌年に『明星』の 創始者・与謝野鉄幹(よさのてっかん)が心からあつく歓(かん)迎(げい)してくれました。そして石川は「啄木」の号を与えてもらって詩作や評論を活発に行いました。 1905年には第一の詩集の『あこがれ』を出版して天才詩人として賞賛されました。"
per_iocum
188 Characters / 3 Recordings / 0 Comments
"文学者としての名声は上がる一方で生活は苦しくなって、1906年に小学校の代用教員として働き始めました。翌年には北海道へひっこして様々な職を転々としながら家族の生活を何とか支えていました。 文学を諦めきれない啄木は1908年に小説家として再び東京に出ました。けれども、小説家としての才能は認められなくて、朝日新聞の校正係として就職し、しばらくしてから朝日歌壇の選者になりました。"
per_iocum
223 Characters / 3 Recordings / 0 Comments
"この年に北海道に残してきた家族を東京へ呼び戻しましたが、妻と姑の仲が悪化し、妻が実家へ帰るなどのトラブルも多かったです。 1910年には第一の短歌集『一握の砂』を出版し、口語的な三行書きや鮮やかな表現技法から啄木は生活派詩人として知られるようになりました。 1912年、肺結核によってたった26歳の石川は死亡(しぼう)しました。 同年に友人達が力を合わせて啄木の第二詩集の『悲しき玩具』を出版しました。その詩集は各方面の文学者の絶賛をあびました。"
per_iocum
139 Characters / 3 Recordings / 3 Comments
"まれにある この平なる心には 時計の鳴るもおもしろく聴く さばかりの事に死ぬるや さばかりの事に生くるや 止せ止せ問答 雨降れば わが家の人誰も誰も沈める顔す 雨霽れよかし 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる ..."