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ELPHONY
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"「標識(ひょうしき)」は、大事な情報をひと目で伝えたり、案内するための目印やサインです。駅、電車、デパート、レストラン、空港、道路--みなさんのまわりにはどんな標識がありますか。 たとえばあなたが外国に行き、空港に降り立ちます。その国の言葉が分からなくても、どこにトイレや電話があるのか、案内用に設置された標識の絵記号で、すぐに分かるでしょう。この絵記号を「ピクトグラム」と呼びます。文字の案内よりもすばやく理解できるので、安全で快適な生活のコミュニケーション道具として世界中で使われています。 標識には、施設や公共の場で使う「一般案内用図記号(いっぱんあんないようずきごう)」、歩行者や運転手のための「道路標識(どうろひょうしき)」などがあります。ピクトグラムは、「トイレ」の表示に男女の絵、「階段」は上り下りする人など、具体的にイメージできるよう記号になっています。 標識の記号化は何万年も前の石器時代からあり、狩りの対象となる動物や人間を図や絵にして洞窟に刻み、情報を伝えていました。"
gogo
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"勉強しろ!! 勉強しろよ!! 勉強して!! 勉強してよ!! 勉強しなさい!! 勉強してください!"
Peter
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"こんいちは。 さようなら。 ください。 どうぞ。 ありがとう。 どういたしまして。 はい。 いいえ。 すみません。 ごめんなさい。 わかりません。 ちょっと待ってください。 …"
per_iocum
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"石川啄木の本名は石川一で、1886年に岩手県で生まれました。小学校時代には神童と呼ばれました。神童というのは、才知の極めてすぐれている子供という意味です。 旧制中学(つまり、今で言う高校)で 金(きん)田(だ)一(いち)京(きょう)助(すけ)と知り合って『明星』を愛読し、特に与謝野晶子(よさしゃのあきここ)の「みだれ髪」が好きでした。 そういうわけで、文学に対する関心が高まる一方で次第に学業を怠るようになっていきました。 1902年には中学を自主退学し、文士文学者として身を立てるために東京に行きました。けれども、出版社への就職がうまくいかないで、結核の発病もあって、ほとんどすぐ帰郷に帰りました。翌年に『明星』の 創始者・与謝野鉄幹(よさのてっかん)が心からあつく歓(かん)迎(げい)してくれました。そして石川は「啄木」の号を与えてもらって詩作や評論を活発に行いました。 1905年には第一の詩集の『あこがれ』を出版して天才詩人として賞賛されました。 文学者としての名声は上がる一方で生活は苦しくなって、1906年に小学校の代用教員として働き始めました。翌年には北海道へひっこして様々な職を転々としながら家族の生活を何とか支えていました。 文学を諦めきれない啄木は1908年に小説家として再び東京に出ました。けれども、小説家としての才能は認められなくて、朝日新聞の校正係として就職し、しばらくしてから朝日歌壇の選者になりました。 この年に北海道に残してきた家族を東京へ呼び戻しましたが、妻と姑の仲が悪化し、妻が実家へ帰るなどのトラブルも多かったです。 1910年には第一の短歌集『一握の砂』を出版し、口語的な三行書きや鮮やかな表現技法から啄木は生活派詩人として知られるようになりました。 1912年、肺結核によってたった26歳の石川は死亡(しぼう)しました。 …"
per_iocum
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"石川啄木の本名は石川一で、1886年に岩手県で生まれました。小学校時代には神童と呼ばれました。神童というのは、才知の極めてすぐれている子供という意味です。 旧制中学(つまり、今で言う高校)で 金(きん)田(だ)一(いち)京(きょう)助(すけ)と知り合って『明星』を愛読し、特に与謝野晶子(よさしゃのあきここ)の「みだれ髪」が好きでした。 そういうわけで、文学に対する関心が高まる一方で次第に学業を怠るようになっていきました。"
per_iocum
214 Characters / 3 Recordings / 2 Comments
"1902年には中学を自主退学し、文士文学者として身を立てるために東京に行きました。けれども、出版社への就職がうまくいかないで、結核の発病もあって、ほとんどすぐ帰郷に帰りました。翌年に『明星』の 創始者・与謝野鉄幹(よさのてっかん)が心からあつく歓(かん)迎(げい)してくれました。そして石川は「啄木」の号を与えてもらって詩作や評論を活発に行いました。 1905年には第一の詩集の『あこがれ』を出版して天才詩人として賞賛されました。"
per_iocum
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"文学者としての名声は上がる一方で生活は苦しくなって、1906年に小学校の代用教員として働き始めました。翌年には北海道へひっこして様々な職を転々としながら家族の生活を何とか支えていました。 文学を諦めきれない啄木は1908年に小説家として再び東京に出ました。けれども、小説家としての才能は認められなくて、朝日新聞の校正係として就職し、しばらくしてから朝日歌壇の選者になりました。"
per_iocum
223 Characters / 3 Recordings / 0 Comments
"この年に北海道に残してきた家族を東京へ呼び戻しましたが、妻と姑の仲が悪化し、妻が実家へ帰るなどのトラブルも多かったです。 1910年には第一の短歌集『一握の砂』を出版し、口語的な三行書きや鮮やかな表現技法から啄木は生活派詩人として知られるようになりました。 1912年、肺結核によってたった26歳の石川は死亡(しぼう)しました。 同年に友人達が力を合わせて啄木の第二詩集の『悲しき玩具』を出版しました。その詩集は各方面の文学者の絶賛をあびました。"
per_iocum
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"まれにある この平なる心には 時計の鳴るもおもしろく聴く さばかりの事に死ぬるや さばかりの事に生くるや 止せ止せ問答 雨降れば わが家の人誰も誰も沈める顔す 雨霽れよかし 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる …"
ELPHONY
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"テストでいい点を取って思わずにんまりしたりお笑(わら)い番組を見て大きな声で笑ったり……。 なぜ人間は笑うようになったのでしょうか。 笑いについて研究している関西女子短期大学(かんさいじょしたんきだいがく)の名誉教授(めいよきょうじゅ)、志水彰(しみずあきら)さん(77)は「笑顔は、生まれる時から人間の遺伝子(いでんし)に組み込まれています」と話します。 笑いには、本能の笑いと学習する笑いがあるそうです。「赤ちゃんが笑うのは本能。赤ちゃんが笑ってお母さんが喜ぶと、赤ちゃんは『笑うとみんなが喜ぶ』と学習する。成長して経験を重ねると、本当は楽しくないのに笑ったりするようになります」 笑顔や怒りなどの表情は、もともとは刺激から顔を守るために発達しました。たとえば、雷が鳴ると思わず目を閉じてしまうのは、刺激に弱い眼球(がんきゅう)を雷から守るため。その表情から危険を察知したり、相手が自分を攻撃するかどうかを見極(みきわ)めたりできるようになりました。"