私にとっては、ほとんど近現代史の教科書の中の出来事であったのであるが、名張毒ぶどう酒事件に再審の可能性が出てきた。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100406k0000e040053000c.html
http://www.asahi.com/national/update/0407/TKY201004060541.html
事件の内容はググればいくらでもでてくるであろうから、説明は例によって例のごとく割愛する。
先日の足利事件もDNA鑑定を足がかりに再審無罪を勝ち取った事案であるが、今回の名張毒ぶどう酒事件についても、奥西死刑囚が混入したと自白した農薬「ニッカリンT」に含まれている成分が、飲み残しのぶどう酒から検出されなかった捜査段階の分析結果の評価が問題になっておる。
刑事裁判は、一般には精密司法等と呼ばれておるが、虚偽自白が問題になる事件が多々存在しておるように、依然として関係者の主観的な供述によって判断が下されることが多いというのは、刑事裁判に携わったことのある弁護士ならば理解きるであろう。
本件では弁護側が、手法が異なる新たな鑑定を行ったところ、「成分が検出されないはずはない」と主張している。
死刑判決を言い渡した裁判所は、「加水分解されれば成分が検出されないこともある」と判断しており、当時の裁判でも鑑定内容が争われた点なのであろうが、結局は、当時の鑑定人なり科捜研なりの技官の主張にのっかったのであろう。
客観的知見からしておかしなことを鑑定人が言ったとしても、裁判所がこれを見抜けなかった可能性があるということである。
昨今、裁判は分かりやすい裁判を目指しており、鑑定においても、分かりやすく結論を提示する方向で刑事裁判は動いておるような気がする。しかし、専門家の言うことであっても、頭から信じるのではなく、きちんと客観的な知見を踏まえたうえで、専門家の言うことを判断しなければならないことを意味しておる。最近の裁判員裁判では鑑定結果については分かりやすいプレゼン方式で行われることもあるようであるが、これには若干の危惧感を覚えてしまう。
こういった科学的知識を持つこと、あるいは理解しようとすることも裁判員には求められることもあるということであるし、昨今の刑事裁判での書証の全文朗読の原則というのも少しは考え直されるべきではないだろうか。この前法廷で学術論文を数通全文朗読したが、読んだだけでは誰も分からぬし、読んでおるこっちの体力消耗も尋常じゃない。かといって、じゃあ、その論文を書いた専門家を全部証人として分かりやすく証言してもらうワケにもいかぬ。こういったことを切り捨ててはならぬ、ということをこういった事例は物語っておるのではなかろうか。