田辺、雄一。
その名を、祖母からいつ聞いたのかを思い出すのにかなりかかったから、混乱していたのだろう。
彼は、祖母の行きつけの花屋でアルバイトしていた人だった。いい子がいて、田辺くんがねえ、今日もね......というようなことを何度も耳にした記憶があった。切り花が好きだった祖母は、いつも台所に花を絶やさなかったので、週に二回くらいは花屋に通っていた。そういえば、一度彼は大きな鉢植えを抱えて祖母のうしろを歩いて家に来たこともあった気がした。
彼は、長い手足を持った、きれいな顔だちの青年だった。素性はなにも知らなかったが、よく、ものすごく熱心に花屋で働いているのを見かけた気もする。ほんの少し知った後でも彼のその、どうしてか “冷たい” 印象は変わらなかった。ふるまいや口調がどんなにやさしくても彼は、ひとりで生きている感じがした。つまり彼はその程度の知り合いにすぎない、赤の他人だったのだ。
夜は雨だった。しとしとと、あたたかい雨が街を包む煙った春の夜を、地図を持って歩いていった。
田辺家のあるそのマンションは、うちからちょうど中央公園をはさんだ反対側にあった。公園を抜けていくと、夜の緑の匂い(におい)でむせかえるようだった。濡(ぬ)れて光る小路(こみち)が虹色(にじいろ)に映る中を、ぽしゃぽしゃ歩いていった。
私は、正直言って、呼ばれたから田辺家に向かっていただけだった。なーんにも、考えてはいなかったのだ。
その高くそびえるマンションを見上げたら彼の部屋がある十階はとても高くて、きっと夜景がきれいに見えるんだろうなと私は思った。
エレベーターを降り、廊下に響き渡る足音を気にしながらドアチャイムを押すと雄一がいきなりドアを開けて、
「いらっしゃい。」
と言った。
おじゃまします、と上がったそこは、実に妙な部屋だった。