決定論とは、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする立場。
対立する世界観や仮説は「非決定論」と呼ばれる。
概説
決定論/非決定論には様々な種類があり、宗教的信念や世界観とも関わる面があるため、時として彼らの見解は鋭く対立する。
一言で決定論/非決定論と言っても、大まかに言って2つの論点がある。ひとつは人間の道徳や「罪」という概念との関係での言明である。もうひとつは物理レベルでの言及である。
古代ギリシャにおいてすでに決定論/非決定論に関わる異なった論は存在していた。原子論は必ずしも決定論を意味していたわけではなく、「クリナーメン」と呼ばれる偶然的な要素が世界には満ちている、ともされた。
道徳に関わる決定論は宗教、なかでもキリスト教において展開された。例えば、ジャン・カルヴァンが『予定説』を唱えた。罪や贖罪の概念は、キリスト教神学において重要な役割を果たすことがあるものである。神と人間の関係はどうあるべきなのか?神に対する人間の「罪」とは何なのか?キリスト教内部の教派ごとに、罪に関する解釈は異なっていることがあり、そもそも議論はあった。
この神学的な問題は、神学と地つながりの領域である哲学でも扱われるようになった。(つまり表面上は哲学論争のように見えていても、真相としては、クリスチャンが属している教派ごとの教義の相違にまつわる論争を持ち込んでいることがあることには気をつけなければならない。) ところで、一般的に「ある人がある結果を自分で選んで起こした場合に限り、それは罪なのだ」と見なされていることは多い。 哲学においては決定論/非決定論は「人間には自由意志があるのか?無いのか?」といった角度から扱われることが多くなった。
このような人間の行為にまつわる解釈の問題は、宗教や哲学に限らず、いつの時代でも人間が生きている限り、現実の問題としてつきまとっている。例えば、現代の法律の領域でも、「故意」、「未必の故意」などの概念がこれに関連している。
科学の 領域においては、近代になると(道徳的な次元の問題としてではなくて)人間を含めた物質を粒子の集まりとしてとらえ、その挙動によって粒子の未来の位置は 決定されていると考え、結局人間の意志や思考を含めて絶対的に未来が確定されている、と見なしたり主張したりする者が現れるようになった。(→機械論、ラプラスの悪魔) (この考え方に関連させて、道徳的なレベルでも人間にはそもそも選択の余地などなく人間の意志の結果も決定論的である、とする論法や世界観も現れた。)
だが、20世紀になると、量子力学におけるコペンハーゲン解釈によって、宇宙は原子下のレベル、量子レベルであまねく確率的であるという説が有力となった。
現在ではコペンハーゲン解釈に加えて多世界解釈や、それに類する見方も存在し、意見が統一されているわけではない。
また、道徳レベルの決定/非決定と物理レベルの決定/非決定の関係については、人間の意識のレベルから見れば、(19世紀までの自然科学で想定して いた世界観を仮に採用し、物理レベルでものごとが決定していると見なしても見なさなくても)選択の余地があると気付いた時点で、思いや行為を選ぶことも可 能で、それによりどの因果の系列を起こすかそれなりに選ぶことはできるということから、決定論を主張することで「自由意志は無い」や「人間には罪が無い」 と主張する考え方は、主体性を欠いた概念であるとし、実際上の有益さを疑問視する人もいる。