科学的な業績において最もよく知られているのは利己的遺伝子論、すなわち進化における遺伝子中心の視点を広めたことである。この視点は1976年の著書『利己的な遺伝子』で明確に示されている。彼は「自己複製する実体の生存率の差によって全ての生命は進化する」と述べた。続く『延長された表現型』(1982)では自然選択を「自己複製子が互いよりもより多く増殖するプロセス」と表現した。動物行動学者としては、動物の行動と自然選択の関連に関心を持っている。また「遺伝子を進化の原理的な単位と見なすべきだ」と提唱している。
ドーキンスは進化における反適応主義(たとえばS.J.グールドとR.レウォンティンのスパンドレル主義、生物の形質には適応的な物もそうでない物もあり、適応主義[彼らはしばしば適応万能論と呼ぶ]のような作業仮説は不適当だとする立場)、および遺伝子より高次のレベルでの選択に懐疑的である。特に利他行動の理解の基盤として群選択を用いることに対して強く疑いを抱いている[14]。
利他的行動は、他者を助けるために自分の適応度を低下させるという行動がどのようにして進化するのかという点で、当初は進化上のパラドックスであった。以前は多くの生物学者が群選択的な視点、つまり「個体は自分自身の利益にならなくても群れや種のためによいから利他行動を取るのだ」と解釈していた。イギリスの進化生物学者W.D.ハミルトンは包括適応度と血縁選択という概念(個体の利他的な行為は遺伝子を高い確率で共有している近親者に向けられている)を提唱し、遺伝子中心の視点から利他行動を理解する道をひらいた[15][a]。 同様に、ロバート・トリヴァーズは遺伝子中心のモデルを発展させ、「個体が将来の返報を期待して他個体へ利益を与える」とする互恵的利他主義を提唱した[16]。 ドーキンスはこれらのアイディアを『利己的な遺伝子』で発展させた[17]。
ドーキンスの批判者は「選択の単位として遺伝子はふさわしくない」「個体が繁殖に成功するか失敗するかのみでそれ以外はない」と述べる。しかし「長い時間をかけ集団中で対立遺伝子の頻度が変化する」という進化の定義の元で、遺伝子は進化の説明に広く用いられている[18]。『利己的な遺伝子』でドーキンスは「遺伝子」の定義にG.C.ウィリアムズの「自然選択の単位として役立つだけの長い世代にわたって続きうる染色体物質の一部」を用いている[19]。 他の一般的な批判には、「遺伝子は単独では生存できず個体を作るために他の遺伝子と協力し合わなければならないのだから単独の単位たり得ない」、がある[20]。『延長された表現型』でドーキンスは「遺伝子の乗換えと有性生殖が存在するために、個々の遺伝子の視点に立てば他の遺伝子は環境の一部と見なせる」と述べた。