自然な速さの上限で、書き言葉を見ていない日本人にも分りやすく聞き取れるように、お願いします。
みなさんこんにちは、はじめに、ひとつの詩を紹介しましょう。
木の陰で、
私と同じ世界に、
蜂がひらひら飛び、
似ても似つかない
その瞳と私のも、
同じ世界を夢見る
私はどういうわけか やむをえず、数年前に大学の文化コースに閉じ込められ、ただの余白にこの詩を書きました。その日に、先生が、スペイン人の到着後のアメリカインディアンの大量殺人の論文を話して、 そのトドローブというフランス人作家のとんでもなく漠然で抽象的なスタイルは、昏睡状態に陥りそうなモノトーン先生の講座に興味深い不思議さを振り掛けました。私は、詩のそばにいたずら書きもしました。
その授業を受けたのは、日本へ一年間留学して帰ってきてすぐ後でした。その時のいわゆる逆カルチャーショック、つまり外国での生活に慣れすぎ、母国へ戻ってからの避けられない違和感が、はっきりと気にかかっていました。だからあの蜂の詩のような言葉には、その時代の本質が移っていると思います。実は、留学の一年間よりもそのあとの一年間がある意味で思い出に残っています。なぜなら、その平凡な毎日で、合理と不合理のさかいめに、言い知れない何かが生まれつつあったかもしれません。
その授業に出る私は、いつも変わりなくコーヒーを持ったのですが、あの運命の日に、握っていたのは、甘ったるくてアメリカらしい特殊ブルーベリー・シェイクで、もしそれがこぼれば絶対に困るほどのきらっとした紫色でした。なのに、不幸に いち早くこぼしてしまいました。その運命の瞬間には、シェイクがズボンのあらゆる所まで疫病のように 広がり、心も甘ったるくて悲喜共々を浴びました。すぐインターネットで調べると、煮え湯がブルーベリのしみを消してくれるという解決を見つけ、喜びました。そして、パソコンの電池が切れ、ぶずぬれのズボンが冷え、お漏らしに見え、本当に、「泣き面に蜂」でした。
一週間後また飲料をこぼし、悲しみに耐え切れずに この詩を書きだしてしまいました:
おめでたい夜になみなみと、
グラスにワインを注いだ私、
飲まずに三週間もテーブルの縁に残し、
ワインとは似ても似つかない、
黴だらけのかたまりをふき取ると、
まぎれなくこれも運命ではないかと、
私は考えずを得ない。
その詩を書いた際には、「ワインを造りやがったフランス人なんか信用するものか!」ときめました。 まったくばかばしくてつじつまがあいませんでしたが、それでもみえをはり、別の心温まる思いがこみあげました。実は、信用ができないのは非常にむさくるしい学生生活を送っていた私の方でした。だから、フランス人がその私のことを絶対に信頼しないほうがいいということでした。そのほうが確かにつじつまがあっていました。
その日には大学の帰り道、バスの中で中年の女の人が安っぽいヘッドフォンをつけて車内中ガンガンとボリュームが激しく上げられた騒音の中で、鼻歌をうたっていました。その間、私はおんぼろで黄色く変わったページを読みながら、主人公の純粋な旅人ゴルトムントは餓死寸前になったのですが幸運にも免れ、純粋な乙女を数え切れなく誘惑する状況でした。すると、バスの後方から「おい ちょっと、おばさん!うるせえじやないか?だまれ!」と言う叫びが山のような男っぽい女性から、出てきました。数分が経ち、主人公ゴルトムントは、教会の中で木彫りのマドンナの像に出くわし、エクスタシーの極みにおける女性の表情と出産時の苦痛におけるその表情とは驚くほど似ていることを考え込みます。この像は、すばらしい芸術的技能により、似ても似つかないその二者を合して一体としたわけです。「おい、バス運転手さん、鼻歌のブス女にシャット、アップ言ってくれない?」と、巨大な女が言いました。やがて、神様の重い声がスピーカーからシューッと出ました。「あの、申し訳ありませんが、周りの人にご迷惑ですから、ヘッドフォンの音を少し小さくしていただけないでしょうか。」と。きらきら 光に浸かっていたように、にやりと微笑みました。どことなく、私もバスの上の各個人もゴルトムントのそばに座っていたのです。
これらをとおして、合理と不合理のさかいめというのはたぶん、目が瞬く間でも、ちらりとみえる悟りが開かれ、同じ尺度で計れないさまざまな文化の矛盾における神秘なのでしょう。トドローブのように各文化に同じ基準を適用しようが、つじつまが合わなく、ナンセンスに終わるのではないかと思います。それこそが意味深いのです。文化が互いに交差せざるを得ないし、その余儀ない隣り合わせが私達の目に入ると、もっともらしいユーモアの翼に乗って一体となり、喜びが生まれるでしょう。
ご清聴ありがとうございました。