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世田谷のS子さん(三一)宅に、逗子に住む姑、F子さん(六一)が訪ねてきたのは、梅雨の晴れ間の昼のことだった。
「渋谷まで来たから、ちょっと孫の顔を見にね」
S子さんにとっては鬼より怖い姑である。精いっぱい愛想よくもてなした後、娘を連れて散歩にいってもらった。ホッと一息。気が緩んだせいか、空腹を覚えるS子さん、ふと、姑が近くの高級スーパー「Kノ国屋」で買ったというドーナツの袋に目が止まった。逗子の自家用といっていたから、
(これには手を出せないわね)
と一度は思ったものの、空腹は理性より強し。袋を開けると、中には六個のドーナツ。
(一個だけなら分からないか)
と、急いで食べると、パックの蓋を念入りに元に戻しておいた。そうとは知らめ姑は、散歩から戻ると、ドーナツの袋を提げて、満足げに帰っていった。
ところが、逗子に戻ったF子さん、しっかり、一個足りないのに気がついたから大変。
「天下のKノ国屋がこんなミスをするなんて!」
と、さっそくKノ国屋に延々三十分の抗議の電話。Kノ国屋の担当者も根負けした。翌朝一番に、八十円のドーナツ一個を後生大事に抱え、販売員と売り場の責任者がF子さん宅まで謝罪にきたのである。片道二時間余り。聞けば、販売員はそのため五時に家を出たという。
F子さんもこれには、
「さすがにKノ国屋だわー」
と大感激。友人やS子さんに吹聴して回った。もちろん、それを聞いたS子さんは、顔面蒼白。この秘密は、墓場まで持って行こうと固く決心している。