・人間は、だいたい同じ原料で出来ていて、
同じような空気やら水やら、
炭水化物やらたんぱく質やら脂肪やらミネラルを摂って、
同じように寝たり起きたりしているものだから、
似てないようで、けっこう「似ている」ものです。
だから、じぶんが嫌っている別の人間の思考だとか、
じぶんには縁がないと思いこんでいる人の感情だとかも、
意外と想像できることが多いものです。
つまり、じぶんの嫌いな人の考えることは、
じぶんのなかに、「少しある」んですよね。
ぼくも人間なので、それなりに苦手や嫌いがあります。
その人と、ぼくは、まったく似てないのではなく、
おそらくどこかが「似てる」んです。
いやだなぁ、と苦く笑っちゃうんだけれど、
それは、あっちも思ってるにちがいないことでね。
・嫌いな人、いやだなぁと思う人を、
同じ人間じゃなく「敵」と名付けてしまうと、
たがいに、相手に対して何をしてもいいことになります。
「敵」だから(「敵」はワタシを危うくするから)、
何を言っても何をしてもいい。そして消えてほしい。
そう思えるようになります。
「敵」を、より憎むために、人間以外の名前も付けます。
悪い名を平気で投げつけられる人は、
誇らしげに、相手を罵り、周辺の拍手をもらいます。
嫌だなぁ、そういうの‥‥。
ほんとに嫌だ、そういうの‥‥で、また思い出すわけ。
実は、その人は、どこかワタシに似ている。
こういう、せつない構造って、
大昔からずっと直らずに続いているんでしょうね。
このくり返しは、かなり、精神を疲弊させます。
「敵」を見つめすぎると、「敵」に似てくる‥‥。
そんなことも言われています。
ぼくが、ほんの少々ですが、元気でいられる理由は、
あんまり人を見つめてないからかもしれません。
うまく言えないんだけど、そう気をつけているみたい。
視線を、やっぱり「光の射してくる方向」に向ける。
できるだけ、そうしようと思っているせいだと思います。
意識してないと、目がちがう方を向いちゃいますけどね。