「新しいねぇ」というのは、
本来は、肯定的な意味は含まれていないはずです。
新しくて、よくないものだってあるし、
新しくて、硬くて食えないものだってあります。
ただ、「新しい」は、いままでになかったという意味で、
それだけの価値は、やっぱりあるわけですよね。
それを強く思いすぎると、
よかろうが、わるかろうが「新しい」ものを、
無理やりにつくろうが「新しい」ものを、
誰もほしがってなくても「新しい」ことを、
どんどん生み出したくなるのも、ある意味自然でした。
「新しい」があれば、そこには「新しい」歓びがあり。
「新しい」が手に入れば、「新しい」じぶんに会える。
そして、「新しくない」ものよりも優位に立てて、
「新しい」というだけで、ちょっと上になれる。
こんなふうに、くどくどと書くと、
「新しい」には、「新しい」の意味しかないことが、
ずいぶんあからさまになってしまうのですが、
「新しい」のマジックにかかっているときには、
「新しい」はもう、万能の「価値」で「勝ち」なのです。
「新しい」は、「新しいねぇ」と認められたときから、
しだいに「新しくない」に変化していきます。
「新しくない」は、無価値であることを意味しませんが、
「新しい」にくらべると、ずいぶん「負け」に見えます。
もう、この「新しい」の幻影から、
自由になっていいころじゃないかなぁと思うのです。
いや、「新しい」の弁護側からも言いましょう。
「新しい」の価値は、「新しい」ことにあります。
それはしっかり認めましょう。
でも、それ以外は、「新しい」とは関係ないです。
前々から、けっこう長い間思っていたことですが、
ここらへんまでは整理できるようになったので、
言ってみることにしました、「新しい」について。
くどくどと、ややこしい言い方で、ごめんなさいねー。