もし彼女が要求しなかったら、僕はいるかホテルになんてまず泊まらなかっただろうと思う。それは小さなみすぼらしいホテルで、僕らのほかには泊まり客の姿は殆ど見あたらなかった。僕がその一週間の滞在中にロビーで見掛けた客は二人か三人かそれくらいだったし、それだって泊まり客なのかどうかわかったものではない。でもフロントのボードに掛かった鍵がところどころ欠けていたから、僕らの他にも泊まり客はいたはずだと思う。それほど多くないにしても、少しくらいは。幾らなんでも仮にも大都市の一角にホテルの看板を掲げ、職業別電話帳にだってちゃんと番号が出ているのだ、まったく客が来ないということは常識的に考えてありえない。