"Natural speed please.
イスラム向けリザーブ侮辱
最近デンマークの新聞がイスラム教徒を怒らせるような漫画を掲載したとき、イスラム教徒たちによる抗議は、われわれ西側デモクラシーは言論の自由という神聖な原則を擁護しなければならない、という反駁を受けた。単に相手側が批判されたとか侮辱されたと抗議したくらいでは、われわれ西側社会は何があってもその重大な権利を放棄してはならないということだった。
だが、ちょっと待って。われわれ西側人のデモクラシーは、人種的な侮辱を禁じているのではなかったか。われわれの神聖な原則や権利はどこに行ってしまったのだ。
現に、その一例として、デンマーク漫画をめぐる論争が進行している最中でさえある英国在住反欧米的イスラム教徒が、われわれ欧米人に対する人種的憎悪を煽ったとして、21ヶ月の投獄を宣告されている。
そしていま、アメリカやオーストラリアで、いわゆる“イスラムの敵”に好意的な話しをしてさえ、有罪にされそうなありさま。— となると、ここから出てくる結論は、宗教で人をさげすむのはよいが、政治や人種で人をさげすんではいけない、ということか。
この歪曲した論理を、教育のあるイスラム教の人々はどう見るか、とくに、イラクでのアメリカ兵やイギリス兵による人種主義的暴力行為がこの論理とも矛盾しているのを見て。
それらの行為について、ロンドンやワシントンから弱々しいお詫びが発せられたが、もしあの証拠ビデオや証拠写真がなかったら、何も知られず闇の中だったろうことは誰にでも分る。実際、ああいうことがいまも続いている可能性は大である。
ベトナムでは、さらに悪質な暴虐が、われらが政府やメディアから半ば無視されたまま、平気で10年も続いた。占領された人々への人種的蔑視は、西側兵士の心理の中に深く根を張っている。
ところで、実際の行動はどうあれ、われわれ西側が自任しているいわゆる“高尚な世界”へ話を戻そう。— われわれが、少なくとも原則上は、人種的侮辱に反対する理由は、人種がわれわれのアイデンティティの重要部分を形成しているからだ。われわれには、人種主義に基づく暴力、憎悪、相互差別などの長い歴史がある。だから今日、それらの悪を扇動したり正当化したりする言動にはフタをする以外にわれわれに選択の余地はない、ということだ。
では、イスラム社会を見てみよう。彼らにとっては、アイデンティティの上で、人種よりは宗教が重要だ。一つの理由は、彼らは、魂と現世行為の両者を密着させる色合いの濃い教えを説く強力な宗教— イスラム教— をもつからだ。イスラム教が世界中に広まったのはその一つの結果だ。たしかに、派による違いはある。— シーア派対スンニ派、など。それでも、全てのイスラム教徒は、一つの究極の真実の源泉(メッカ)があると理解している。— これは、分裂的なわれわれ欧米人の宗教には当てはまらないことだ。
イスラム教徒たちが、見事に、宗教のために人種的差別を手なずけているやり方はその一つだ。数百万のイスラム教徒が、あらゆる民族の、富者も貧者も、みな同じような白い衣装をつけ、メッカでハッジ義務を果たすためにともに祈り続ける、絶えることない光景はその証拠だ。われわれ欧米人の宗教が、どれか一つでも、これほど容易に人種の差別を克服していると主張できるだろうか。
言い換えれば、われわれ欧米人は、また日本人も、アイデンティティの基盤として人種という族的概念にこだわり、この領域の批判には敏感であるが、一方、イスラム教徒たちは、アイデンティティの基盤を宗教へと移行させたために、その領域での批判には、より多くとはいわないまでも同じ程度に、敏感なのだ。
最小限、われわれ自身の社会内で、人種的侮辱の罪で人を投獄することに懸命になっている一方、イスラム教徒が彼らの宗教への侮辱に対して敏感だとバカにすることは、われわれが自称する”より優れた価値観の社会”の現象としては、あまりほめられた事例ではない。けれども残念ながら、このような思考がわれらが反イスラム教徒的独断的評論家たちの閉鎖的、自人種中心的な頭の中に浸透できる可能性はほとんどゼロだ。
この同じ偏見が、われわれのメディアを汚染している。自分の国から欧米の占領軍を追い出そうと戦っているイスラム武装集団は、機械的に”テロリスト”と弾劾される。(そんなに遠くない過去に彼らがソ連の占領軍と対峙していた時には、彼らは"自由の戦士"と称えられていたのだが。)その過程で進んで自分の命を犠牲にしようとする者に対しては、錯乱者、臆病者、狂信者などと侮蔑する。
ナチスドイツなら、占領地におけるゲリラや抵抗勢力の鎮圧のためなら、喜んでこのような用語を使ったことだろう。
確かに、アメリカはイスラム教徒の人々に民主主義が必要だという。だが、公正な選挙で、自分の気に入らないイスラム勢力の政権が成立する、あるいは成立しそうになると、いつもそれを禁止する— アルジェリア、イラン、そしていまパレスチナで。 その一方、気に入った政権は、たとえ選挙を拒否するような政権でも、親しい関係を続ける。アメリカ人企業家ヘンリー・フォードがいったように、“自分の客は何色の車をもってもいい、それが黒である限り”、だ。
イスラムの人々は馬鹿ではない。これから先いつまで、彼らはこの種の身勝手なたわごとを我慢しているだろうか。
最近のパレスチナ選挙でのハマスの勝利を受けて“イスラエルという国の破壊を呼びかけるテロリスト組織の勝利”について、メディアの果てしない警告を聞かされる。
公正をもって自任するBBCも同罪だった。けれどもその直後に、同じBBCが公正なドキュメンタリー— パレスチナ人にとってハマスは、国民のことを考え腐敗のない政府を提供できる唯一の政治組織であること、また彼らの反イスラエル感情は、主にイスラエルによるパレスチナ領域占領とパレスチナ人追放を弾劾した国連決議にイスラエルが逆らっているのが原因であること、を明確に示した番組— を放送した。何よりも、この原因と結果の関係— もし人が力ずくで権利と領土を奪われたら力ずくで反撃するより他に方法がないということ— を西側の人々が理解できないことが、彼らに対するイスラム人の怒りの底にある。
もし私が言論の自由の権利を行使して、自由を愛するオーストラリアにおいて武力の行使が正当化されうると示唆したとすれば、私は投獄され、イスラム人たちに対して侮辱し且つ武力を行使する権利を要求するまさにその連中は喝采して喜ぶことだろう。どこまで人間は偽善的になりうるのか。
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