普通の話すスピードでお願いします。
ふとグリフィス天文台のことを思い出した。
想像を絶する、素晴らしい光景だった。
あそこに行ったのは、つい数日前だ。
僕はずっと以前、移動するなんて時間の無駄だと思っていた。ましてや旅など。なんのために行くのかと、
そんなヒマがあれば、家でプログラミングでもやっているほうが良かった。
けど、今は違う。
キーボードを打つ時間と同じくらいに、クルマのハンドルを握る時間、カメラのシャッターを切る時間、そういう時間も大事だ。
今の僕にとって、旅はとても抗えないような凄まじい魅力を持っている。
誰に求められなくても僕は旅に出る。まるでそうするのが当たり前のことのように。
毎回、飛行機に乗るごとに「もう旅はゴメンだ」と思うのだけど、ひとたび日常の生活に戻ると、また新たな旅路を探している自分が居る。
親父も旅が好きだった。
いや、きっと今も好きなんじゃないかと思う。
病気してなければ、もっとあちこち旅行して回っていたかっただろう。
大昔、まだ僕が子供で、親父が僕くらいのときに、「会社をやめてツアーコンダクターになる」と言ったことがあった。
エンジニアが突然、ツアコンになろうというのだから相当な変わり者だ。
結局、その夢は断念したらしく、結局は定年まで勤め上げた。
家族旅行ともなれば親父は下見は欠かさず行っていたし、それから詳細な旅行計画を練り上げ、地図、現地の歴史、観光情報、それら一式をまとめた「旅のしおり」を作った。それを作るのが楽しくてしょうがない、といった感じだ。
そして旅から帰ると、今度はアルバム作りだ。
それでカメラにハマって行った。
旅の楽しみは三段階ある、と親父は言った。
「計画する楽しみ」、「旅そのものの楽しみ」、そして「振り返る楽しみ」だ。
僕は最初の計画というやつだけはあまり好きになれなくて、基本的には計画を立てずに旅に出かけることが多い。もちろん、時間やコストに制約があるときは計画を立てざるを得ないが。予め誰かが予定をギチギチに決め込んでるパックツアーは願い下げだ。
それはそれでいいところもあるが、旅の醍醐味とは、危険や不安を乗り越えることにある、と僕は思う。
僕にとって旅とは冒険であって、冒険とは危険を乗り越えるものだ。
お盆のこの混みそうな時期に、敢えて京都に向かって走り出したのも、小さな野暮用があるだけだった。
直前までは新幹線で行こうとしていたが、どうも人ごみは苦手なので愛車を出すことにした。
京都くらいならそう遠くもない。サンフランシスコとロスくらいの距離しかないのだ。
そういうわけで僕はしばしばクルマで京都に来る。元気が少し余っていれば大阪まで足を伸ばすこともある。前は島根県まで行った。
静岡の浜松あたりでひどい雷雨に襲われて、視界が非常に悪くなった。
カッと稲光が光ると、目の前には地獄絵図が広がってる。
発煙筒だ。その向こうに炎。人も立っている。
咄嗟にステアリングパドルでギアを3速まで落とし、エンジンブレーキ。滑り出す車体に自動スタビリティ制御が介入。ASCランプがチカチカ瞬く。ステアリングには野太いインフォメーションが返ってくる。ヤバい感覚。冷や汗。
何か所かかんでしまい、また”稲光が走ると”と言ってしまいました(この表現も正しいです)。ごめんなさい。