演技論の答を哲学書に求めた
好きな映画とか好きな監督とか、好きなドラマでもいいんですが、挙げていただけないでしょうか。
「ないです。すみません、僕はあまりフィクションが好きではないんです」
フィクションを鑑賞することがあまりお好きでないとすると、小説も読まれない?
「小説もあまり読まないです。ルポルタージュしか読まなくて、ドラマも映画もほとんど観ないですね」
この撮影でもドラマでの演技でも、フィクショナルな空間を作り出すことで観る人をうならせる堺さん本人が、フィクションが嫌いだというのは大変興味深い。小説はあまり読まない堺さんであるけれど、ルポルタージュのほかに哲学書にも影響を受けているという。
「全然詳しくはないんですけれど、学生時代の(ルートヴィヒ・)ウィトゲンシュタインだとか、西田幾多郎だとかを、読んだりしていました」
ウィトゲンシュタインを読むのは珍しくないですか。非常に難解な論理哲学ですよね。
「全然わかっていないんですけれど、“語りえぬものについては、沈黙しなけらばならない”という有名なフレーズを自分の仕事に置き換えると、“役者ができるところは一所懸命考えて、その先は潔く沈黙しなければならない”ということになると思いまして」
西田幾多郎も難しい……。
「『善の研究』しか読んでいないんですけど、いい芝居ってなんだろうと考えることと、善ってなんだろうって考えること、いいってなんだろうと考えることは、実はそんなに離れていないような気がして。あと、日本人の演技論って固まっているようで固まっていないというか、あるようで、ないようで……」
俳優としての職業意識については考えないという堺さんであるけれど、「いい芝居とは何か?」については深く考えているのだ。面白い。言葉の続きを待つ。
「演技論を見つけたいという想いと、急ごしらえでも初めて日本人の哲学を手作りしようとした西田幾多郎の人生っていうのが少し重なって、どっかにヒントになればいいなと思ったことがありました。2、3年前に京都でちょっと長いロケがありまして、哲学の道でも歩きながら西田幾多郎について考えようっていうマイ・ブームがあったんです。日本人の演技論って歌舞伎とか能といった古典だといろいろあるんですが、現在の演技論がピンとこなくて……」
たとえば戦後間もないころだとか、そこまでいかなくても1970年代、80年代ごろには、演技論や演劇論を戦わせるのが俳優としての日常の一部だったように思う。それがいいとか悪いとかではなく、そういう時代だったし、そういう社会だった。
今の時代にあって演技論や演劇論を真剣に考えている堺さんは、少し異質な存在に思えます。
「僕は別に素養としてやろうとしているわけではなくて、たまたまだったんです。逆に議論を戦わせなくてもお芝居ができて共存しているっていうのは、平和で豊かな芸能の状態かもしれませんし。演劇論ばかり戦わせても、もちろんいいこともあるかもしれませんが、くだらないやつが威張るっていう可能性もありますから。飲み屋で、芝居がつまらないのに持論をぶってるやつもいたでしょうし。なに言ってるんだ大根のくせに(笑)、っていうのもあったかもしれない」