これは日露戦争の舞台となった中国東北部、いわゆる満州で、日本軍に同行したイギリス人が撮影した、実写フィルムです。
山の向こう側は極東、ロシア艦隊の根拠地、「旅順」です。日本とロシアは、満州と朝鮮半島での権益を巡って戦い、特に、二百三高地では大きな犠牲を出しました。
極東の小国日本と、ヨーロッパの大国ロシアとの戦いに世界が注目しました。
当時の代表的なイギリスの新聞はこう伝えています。
「日本人は西洋の学問の成果をすべて集めた。そして、西洋の成果を応用し、組み合わせて使いこなしている。この民族は我々の育んだ複雑な文明を、わずか一世代あまりのうちに習得したのだ。ロシア軍は、ロシア人最高の武威を発揮している。しかし、それを攻撃する日本人はもっと偉大と言わざるを得ない。粘り強さ、気転、すばらしい勇気、厳しい状況への知的な対応。今、世界中が興奮している。日本人は誇り高い西洋人と並び立つ、列強であることを、世界に示したのだ。」
明治38年、旅順の戦いに勝利した日本軍は、降伏したロシア軍と、旅順北西の水師営(すいしえい)で会談を行いました。
これは、会談を終えた直後の、ロシア軍司令官、ステッセル、そして、日本軍司令官、乃木希典(のぎ まれすけ)です。この映像は、日本軍の勝利を世界に伝えるものとなりました。
陸軍大将、乃木希典は、大国ロシアを破った名将として、世界に名を知られました。
日本の勝利のニュースは、欧米列強の植民地となっていたアジアに衝撃を与え、民族的自覚を高めるきっかけとなりました。
当時イギリスに留学していた、後のインド初代首相
ネルーは、日露戦争をこう回想しています。
「日本の勝利は私を熱狂させた。私は、新しいニュースを見るため、毎日新聞を待ちこがれた。どんなに感激したことか。どんなにたくさんのアジアの少年少女、そして大人が同じ感激を体験したことか。ヨーロッパの強国ロシアは、アジアの国、日本に破れた。だとすれば、アジアはヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。『アジア人のアジア』という声が沸き起こったのである。」
二年間の戦いの末、日本とロシアは、アメリカの仲介で公安を結ぶことになりました。
これは、アメリカのポーツマスで開かれた、興亜会議に出席した、日本全権団です。
日本の勝利のニュースに、時のドイツ皇帝、ウィルヘルム二世は不安を抱き、こう語っています。
「世界に、人類の運命を決する、大きな危機が近づいている。その第一回の戦争は、我ら白色人種のロシア人と、有色人種、日本人との間で戦われた。白色人種は不幸にして破れ、日本人は白人を憎んでいる。白人が、悪魔を憎むように憎んでいる。しかし、我らにとって、日本軍そのものが危険なわけではない。統一された、アジアのリーダーに日本がなることが危険なのである。日本による中国の統一。それが、世界に脅威を与える、もっとも不吉なことである。」
こうして、世界が不安と期待をもって見つめる中、日本は欧米列強と方を並べることを目指して行きます。